寂しくて悲しい桜の木のこと
我が家の前には川が流れていて、その傍は遊歩道になっている。
犬の散歩、ジョギング、ウォーキングなど、毎日沢山の人がその遊歩道を歩いている。
私もスーパーへ食材の買い出しに行く時にはよくその道を通るのだが、
川のせせらぎ、ウグイスの鳴く声、鷺や鴨やカワセミの飛ぶ姿、水の中を泳ぐ鯉や甲羅干しをする亀など、歩けば必ず何かに出会える道だ。
東京の郊外にある我が家は都会から遠く、以前働いていた時には毎日通勤に片道1時間半以上の道のりで大変な面もあったし、夫は今でもその距離を毎日通勤しているのだが、
我々2人ともが育った地域でもあり、休日に家の周りにいるだけでも癒される環境が好きで、この場所に家を建てた。
その遊歩道には所々に桜の木が生えている場所がある。
我が家から一番近い場所には桜の大木が3本と、川の土手に比較的最近植樹された(と言っても丸5年以上はある)八重桜の若い細木が4本あって、
毎年春になると桜色の花びらが綺麗に開いて、水色の空に映えている。
私はいつも買い物途中で桜の木の下で足を止めて、空を見上げ、
どうせ毎回同じような写真になってしまうのに、ついつい桜と空の写真を撮ってしまう。
言ってみればそれが、私の春の恒例行事だった。
暑い日には桜の木の下には日陰が出来ていて、そこで足を止めてふっと一息ついてみたり、
秋の夕暮れに葉が落ちて寂しくなった枝の隙間から夕焼けを見上げたり、
冬の寒い日には裸の枝の上の空に、真昼の白い月が覗いていたり、
木というものは、小動物や鳥のみならず、私たち人間にとってもかけがえのない癒しであり、つい足を止めて見上げてしまう、そういう存在で、
きっとこの桜の木は、そうやって長い間、沢山の人に見上げられて生きてきたのだろうと思う。
そんな桜の木々の異変に気がついたのは、昨日、久しぶりに遊歩道を歩いてスーパーへ出かけた時のこと。
最近体調の優れない私は遊歩道を通ることなく過ごしていたから、久しぶりの散歩も兼ねていた。
近づいた途端に、まだ数百メートル手前であっても、その異変にはすぐに気がついた。
だって、3本並んでいたあの立派な桜の大木が、明らかにそこにない、のだから。
足早に向かってみると、3本が3本とも見事に切り落とされ、切り株だけが残っていた。
ああ、もうここで、あの桜越しの空を見上げることはないのだ
そう思った瞬間に、悔しさと寂しさと悲しさが込み上げてきた。
写真を撮ってすぐに夫に送ると、夫からも同様に、
「ひどいな。悲しいな。」
という言葉が返ってきた。
信じられない思いでふと河川敷の方に目をやると、そこにもない!!!
遊歩道を挟んで反対側の河川敷にあったはずの4本の八重桜の若木のうち、3本が同じように切り株だけになっていた。
全部で6本、春には綺麗な花を咲かせ、新緑には淡い緑色の葉を茂らせ、
つい最近まで元気に立っていた6本の桜たちが、無惨にも切り倒されてなくなっていた。
一体何があったというのだろうか。
不意に怒りが込み上げてきて、思わず役所に電話してやろうかとも思った。
でもすぐに思い直してやめることにした。
例えどんな切実な理由や大義があろうとも、所詮は人間の都合によるものだ。
どんな理由を聞かされたところで、もうあの桜たちは戻ってこない。
6本の桜の木がなくなった場所はあまりに殺風景で、必要なパーツが確実に抜け落ちている違和感があった。
人というのはすぐに新しい景色に慣れてしまうものだ。
それでもここを通る度に、かつてこの場所で花を咲かせてくれていた桜たちの姿を思い出して、私はまた空を見上げると思う。